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「どうする家康」甲冑の考案も手がけた多芸多才な武将

父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、利休七哲の一人にも名を連ねています。家康が会津征伐のため大坂を留守にした際に三成が妻子らを人質に取ろうとした際、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶ちました。さらに父が守る田辺城は西軍によって包囲されてしまい、三成への増悪の念は深まったとされています。戦いの当日は約5千の兵を率い、岡山烽火場の麓、相川の南付近に布陣し、黒田・竹中隊とともに、笹尾山の石田隊を攻め、壊滅させました。